サン・アンド・スターズ・ザ・ウェッブの情報発信地。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
先日公開した
「僕とトモダチの果てしない話~段ボールの視界~」
について、ちょっと書きます。
作品を、ある種の「謎」みたいなもの
と思って見たときに、
エンタメにおいての謎というのは、
解明される対象、
つまり解明するところに
面白みがあるのでしょう。
作品解説を、作者みずからがやってしまうと、
この、
謎の解明を
やりすぎてしまう感じがするので、
何年も経った作品ならいざ知らず、
公開直後のものは
私としてはあんまり語りたくない
という感じがします。
というか、
作品なんだから、
言いたいことは作品内で描き終えてるはずなので、
もう語るところがないというのもあります。
【追記】
それに、作者が「こういう感じで描きました」
って言っちゃうと、
それが「正解」になっちゃうようで、いやなのです。
作品の解釈とか感想に、「正解」なんか
あってたまるかと思います。
だいたい、
作者は神様じゃないというのが私の作品については言えて、
書き終えてみないとわかんないし、
読み直してみたら、あらあら、全然思ってたのと違うわ、
ってなることばっかりなのです。
なので、「正解っぽい」ことを言いたくないのです。
という観点からすると、
やはり作品というのは「謎」であって、
「謎」ではないという、不思議なものです。
【追記終わり】
でも、実際は、
読者からすると、
「そこも含めて作品」
というような感じだし、
より深く味わうための一助
程度なものだったりしますね。
あんまそんな、深く考えんでも、みたいなね。
そんななか
先日、お知り合いのカコセイイチさんから
~段ボールの視界~を
読んだ感想をいただいたのですが、
それが、感想の域を超えて、
謎の解明をしていただいたな~という感じで、
とても痛快というか、
ありがたかったので、
それを載せていただきつつ、
私も私なりになにか書こうと思えました。
このブログを書こうと思った動機を
書くだけでこんなに長くなるとは!!
よろしければ
~段ボールの視界~を再読いただくか、
未読の方はご一読たまわりましてから、
先にすすんでくだせえと思いつつ、
読んでない人で、ブログを読んでから
読んでみようという人がいても、
いいよねとも思いますことよ。
僕とトモダチの果てしない話~段ボールの視界~ はこちらから
読みましたね??
カコセイイチさんからいただいた文章を
許可をいただいたうえでそのまま引用いたします。
(前略)
今回のテーマはいつもに増して哲学的で考えさせられました。
「捨てる」「拾う」、「助ける」「助けられる」
…この輪廻が交差する二人の視線で表現されているようで、
お話の最初から最後まで、
その綺麗な流線が見えるような感覚になりました。
最後の子供のヨシト君を大人の怜央君が助けるシーン、
本当にかっこよかったです!
「助ける」「助けられる」が
時空を超えて交差しているシーンで素敵でした。
好きなコマは
ヨシト君が
「捨て猫を拾う人は無責任だ」
って言うのを聞いた時の怜央君の表情です。
これは私の勝手な感想なんですが、
今回、子供の頃の怜央君は出てこないけど
もしかしたら怜央君は
子供の頃にヨシト君と仲良くなったことを、
どこか少しだけ「助けられた」と
感じているんじゃないかと…。
だから、
捨て猫を拾って来ちゃうヨシト君のエピソードを、
本人のヨシト君とは違って、
とても大切に思っているような気がします。
それをヨシト君がああ言ったのが、
なんだか嫌だったんじゃないかな…と、
あのコマの怜央君の少し驚いたような顔を見て感じました。
(後略)
お返事はカコさんに直接しましたので、
ここでは何も触れませんが、
この作品の謎を、
カコさんが拾い出し、
解明してくださったなぁと、
名探偵だなぁと思いました。
作品解説は
カコさんのおかげでもう十分、
十分以上なので、
私はいろいろ書きます。
僕トモのプロットを書こうとするとき、
大体、「もやもやとしたもの」があって、
それが、ヨシトくんの思いだったり、
怜央の体験だったり、
なんか心に
引っかかっていることだったりします。
いつも、
心のどこかに、
もやもやしたものがあって、
それが流れていかない。
「あれはなんだったんだろう」
というような思いが、
「誰かに話そう」ということに
なるんじゃないかと思います。
それが会話だと思いますし、
それが僕トモなのでありまして……
謎の解明をした結果が
また作品という謎になるのが
おかしなというか
面白いところです。
話を戻して、今回の~段ボールの視界~について。
この話は、実は、
コミティアで出した&通販とダウンロード販売中の「その日、ガリバーがやってきた」内の話と
通じるところがあります。
(絶賛発売中!!!!!)
人は、
同じ体験を二度はできませんが、
超ムカついた、という話を
トモダチにしていると、
そのときのことをリアルに思い出してきて、
怒りを再生してしまう、
ということがあります。
人は、
同じ体験を二度はできませんので、
過去を変えることはできませんが、
過去の捉え方が変わることで、
自分のなかで
「ずっと後悔していること」
だったり、
「ずっと気にしていたこと」
を、
ちょっと違うところに
納めることはできます。
この二つをあわせると
「過去の自分の救済」
みたいなものが、
少しできるのかもしれません。
ヨシトくんがずっと気にしていた、
仔猫を拾ってきてしまう自分についての
後悔だったり、
悲しさだったり、
やるせなさだったり、
というものが、
ずっと消化も昇華もしていなかったことが、
大人になった自分によって、
ちょっとちがうところに納まる……
ように見えて、
今回は納まってないですね(笑)
カコさんがズバリ書いてくださいましたが、
助ける・助けられる
過去と未来の
交錯が
今回のお話でした。
ヨシトくんの自己救済は
今回うまいところには納まっていないし、
結局自分はあの頃のままのところがあると
気付いたのですが、
今回、
怜央に「話した」ことによって、
助ける・助けられる
には、
他社の介入
というものがあると
本人も気づいた……
のかどうかは定かではなく。
でも、
夢の中に出てくるくらいなので、
頼りにしてるのだと思います。
なんとなく、
「そうやってにんげんいきていく」
みたいな終わり方になって、
個人的には
すっきり終わりました。
いろいろな感想を寄せていただきました。
ツイッターのリプライや
ウェブ拍手、
ありがとうございました。
「主筋」として私が込めたものは
上記したような内容ですが、
ここで拾いきれないような
細かいTIPSはたくさんちりばめておりますので、
そういったところを拾ってくださったような感想もあり、
なんというか
小宇宙
と思いました。
また次もよろしくどうぞ。
「僕とトモダチの果てしない話~段ボールの視界~」
について、ちょっと書きます。
作品を、ある種の「謎」みたいなもの
と思って見たときに、
エンタメにおいての謎というのは、
解明される対象、
つまり解明するところに
面白みがあるのでしょう。
作品解説を、作者みずからがやってしまうと、
この、
謎の解明を
やりすぎてしまう感じがするので、
何年も経った作品ならいざ知らず、
公開直後のものは
私としてはあんまり語りたくない
という感じがします。
というか、
作品なんだから、
言いたいことは作品内で描き終えてるはずなので、
もう語るところがないというのもあります。
【追記】
それに、作者が「こういう感じで描きました」
って言っちゃうと、
それが「正解」になっちゃうようで、いやなのです。
作品の解釈とか感想に、「正解」なんか
あってたまるかと思います。
だいたい、
作者は神様じゃないというのが私の作品については言えて、
書き終えてみないとわかんないし、
読み直してみたら、あらあら、全然思ってたのと違うわ、
ってなることばっかりなのです。
なので、「正解っぽい」ことを言いたくないのです。
という観点からすると、
やはり作品というのは「謎」であって、
「謎」ではないという、不思議なものです。
【追記終わり】
でも、実際は、
読者からすると、
「そこも含めて作品」
というような感じだし、
より深く味わうための一助
程度なものだったりしますね。
あんまそんな、深く考えんでも、みたいなね。
そんななか
先日、お知り合いのカコセイイチさんから
~段ボールの視界~を
読んだ感想をいただいたのですが、
それが、感想の域を超えて、
謎の解明をしていただいたな~という感じで、
とても痛快というか、
ありがたかったので、
それを載せていただきつつ、
私も私なりになにか書こうと思えました。
このブログを書こうと思った動機を
書くだけでこんなに長くなるとは!!
よろしければ
~段ボールの視界~を再読いただくか、
未読の方はご一読たまわりましてから、
先にすすんでくだせえと思いつつ、
読んでない人で、ブログを読んでから
読んでみようという人がいても、
いいよねとも思いますことよ。
僕とトモダチの果てしない話~段ボールの視界~ はこちらから
読みましたね??
カコセイイチさんからいただいた文章を
許可をいただいたうえでそのまま引用いたします。
(前略)
今回のテーマはいつもに増して哲学的で考えさせられました。
「捨てる」「拾う」、「助ける」「助けられる」
…この輪廻が交差する二人の視線で表現されているようで、
お話の最初から最後まで、
その綺麗な流線が見えるような感覚になりました。
最後の子供のヨシト君を大人の怜央君が助けるシーン、
本当にかっこよかったです!
「助ける」「助けられる」が
時空を超えて交差しているシーンで素敵でした。
好きなコマは
ヨシト君が
「捨て猫を拾う人は無責任だ」
って言うのを聞いた時の怜央君の表情です。
これは私の勝手な感想なんですが、
今回、子供の頃の怜央君は出てこないけど
もしかしたら怜央君は
子供の頃にヨシト君と仲良くなったことを、
どこか少しだけ「助けられた」と
感じているんじゃないかと…。
だから、
捨て猫を拾って来ちゃうヨシト君のエピソードを、
本人のヨシト君とは違って、
とても大切に思っているような気がします。
それをヨシト君がああ言ったのが、
なんだか嫌だったんじゃないかな…と、
あのコマの怜央君の少し驚いたような顔を見て感じました。
(後略)
お返事はカコさんに直接しましたので、
ここでは何も触れませんが、
この作品の謎を、
カコさんが拾い出し、
解明してくださったなぁと、
名探偵だなぁと思いました。
作品解説は
カコさんのおかげでもう十分、
十分以上なので、
私はいろいろ書きます。
僕トモのプロットを書こうとするとき、
大体、「もやもやとしたもの」があって、
それが、ヨシトくんの思いだったり、
怜央の体験だったり、
なんか心に
引っかかっていることだったりします。
いつも、
心のどこかに、
もやもやしたものがあって、
それが流れていかない。
「あれはなんだったんだろう」
というような思いが、
「誰かに話そう」ということに
なるんじゃないかと思います。
それが会話だと思いますし、
それが僕トモなのでありまして……
謎の解明をした結果が
また作品という謎になるのが
おかしなというか
面白いところです。
話を戻して、今回の~段ボールの視界~について。
この話は、実は、
コミティアで出した&通販とダウンロード販売中の「その日、ガリバーがやってきた」内の話と
通じるところがあります。
(絶賛発売中!!!!!)
人は、
同じ体験を二度はできませんが、
超ムカついた、という話を
トモダチにしていると、
そのときのことをリアルに思い出してきて、
怒りを再生してしまう、
ということがあります。
人は、
同じ体験を二度はできませんので、
過去を変えることはできませんが、
過去の捉え方が変わることで、
自分のなかで
「ずっと後悔していること」
だったり、
「ずっと気にしていたこと」
を、
ちょっと違うところに
納めることはできます。
この二つをあわせると
「過去の自分の救済」
みたいなものが、
少しできるのかもしれません。
ヨシトくんがずっと気にしていた、
仔猫を拾ってきてしまう自分についての
後悔だったり、
悲しさだったり、
やるせなさだったり、
というものが、
ずっと消化も昇華もしていなかったことが、
大人になった自分によって、
ちょっとちがうところに納まる……
ように見えて、
今回は納まってないですね(笑)
カコさんがズバリ書いてくださいましたが、
助ける・助けられる
過去と未来の
交錯が
今回のお話でした。
ヨシトくんの自己救済は
今回うまいところには納まっていないし、
結局自分はあの頃のままのところがあると
気付いたのですが、
今回、
怜央に「話した」ことによって、
助ける・助けられる
には、
他社の介入
というものがあると
本人も気づいた……
のかどうかは定かではなく。
でも、
夢の中に出てくるくらいなので、
頼りにしてるのだと思います。
なんとなく、
「そうやってにんげんいきていく」
みたいな終わり方になって、
個人的には
すっきり終わりました。
いろいろな感想を寄せていただきました。
ツイッターのリプライや
ウェブ拍手、
ありがとうございました。
「主筋」として私が込めたものは
上記したような内容ですが、
ここで拾いきれないような
細かいTIPSはたくさんちりばめておりますので、
そういったところを拾ってくださったような感想もあり、
なんというか
小宇宙
と思いました。
また次もよろしくどうぞ。
PR
最新記事
(07/20)
(02/21)
(02/10)
(01/02)
(12/02)
ブログ内検索