サン・アンド・スターズ・ザ・ウェッブの情報発信地。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
たまには普通のブログとか。
告知はだいたいTwitterでやってて、そっちを見てくれれば。
あと新作漫画はpixivにものっけてるし。
最近、「種の起源」にハマっていた。ダーウィンのあれだ。といっても解説本とか精読本をいろいろ読んだり、ネットで調べたりしていた。原典を原典のまま読めたらいいんだけど、そーもいかない。知らないことがたくさんあって面白かった。進化論についても、知ってるようで知らないことばかりだったし、長年の疑問が解けたりした。学校で学んでいるときも、生物学は好きだったけど、もっともっと深く興味を持てていたら面白かったのになぁと思った。というベタな雑感。
面白かったこと。
ダーウィンが行った徹底した観察と、その結果に基づく科学的考察というのは、考える力を養う上で非常に重要だと感じたこと。
インターネットでは、日々、あらゆる情報が飛び交っているが、それはいつも偏っている。努めて平等にしようとしても、Twitterで誰をフォローするか、ニュースサイトでどんなニュースが気になってクリックするかは己の意志によって決定されるので、結局偏っていく。
それは、実生活でも同じことが言えて、テレビでも新聞でもラジオでも日常でも、いろいろな情報が飛び交っているのに、実際耳に入ってきて考える素となるのは、大抵自分が(意識的にせよ、無意識にせよ)求めている情報でしかない。インターネットはそれが顕著になるメディアだ。
ある発信源から発せられる情報が偏っていると感じるのは、自分の意志があるからだ。
どこかの発信する情報の偏りに憤るならば、自分の求めたい情報がそこにないからだ。
情報を他者に伝えようとすれば、編集して伝えることになる。誰が、どのような目的で、誰のために、どこを切り取るか。あらゆる地点で編集者の意図が介在する。完全なる生の情報は存在しない。体験すら、自分の意識が邪魔になる。
その前提に意識的かどうかが重要だ。
己が社会だと信じて疑わないものは常に、自分向けにカスタマイズされた社会だ。望むものであろうとそうでなかろうと、その事実は変わらない。自分の知るものが、常に、そのすべてではないと思っていたい。
ダーウィンの時代信じられていた通説は、現代から見ると誤っている。それでも、当時はそれが真実と多くの人に受け入れられていた。ダーウィンが殊に優れていたのは、その枷から自由になり、思考をめぐらすことができた点だ。その際の根拠となったのが、徹底した観察であり、現実に目を向け続けた姿勢であると感じた。
実に多くの問題が、認識の誤りから生まれている。
先日、ふと、「アリとキリギリス」というイソップ寓話に疑問を持った。アリが働き者の象徴なのはわかるが、キリギリスは? キリギリスはそもそも冬を越せない昆虫なのだから、冬支度せずに夏を謳歌するのは通常営業で、怠け者扱いはおかしいのではないかと思った。
そこで、キリギリスの生態のどういった点が怠け者と例えられることになったのかを考えようかと思ったのだが、また、ふと、疑問を持った。そもそも、原題は「アリとキリギリス」ではなかったのではないかと思ったのだ。
来日する多くの欧米人が、夏、セミの声を聴いて「なんの音なのか」と疑問を抱くと聞いたことがある。セミは日本ではメジャーな昆虫だが、欧米ではそうではない。キリギリスも同じような案件ではないか。キリギリスが、全世界的に分布しているメジャーな昆虫には思えない。
検索してみた。
Wikipediaによれば原題は、そのものズバリ「アリとセミ」であり、そのセミとは、センチコガネという虫だそうだ。一体、セミなのか、コガネムシなのか、新たな疑問が生まれてしまったが、今回は「キリギリスではなかった」ことだけが判っただけで十分である。
あやうく、「キリギリスが享楽主義者たる30の理由」とかいうホッテントリ的テーマで考え出さずに済んで良かった。
私自身は、日頃 考え事に効率を求めないし、実用も求めない。考え事は楽しい、面白い、興味深いものならばなんでもいい。
しかし、問題の解決や、苦痛の軽減、アイデアの発掘など、実用のために考えるならば、そもそも問題の認識を誤ると、トンデモ理論の発明をしなくてはいけなくなるな、としみじみ感じた出来事だった。
思考とは、現実の観察から始めなくてはいけない。ダーウィンのように。
なるべく恣意的なフィルターを取り除き、情報を精査し、観察者としての徹底した姿勢が重要だ。
そこから、考え始める。
すると、そもそも「そこに問題などなかった」ことすらある。怠け者がキリギリスではなかったように。
間違った観察と、誤った認識によって、問題ではないことが問題になっていることが往々にしてある。そのこと自体も、徹底した観察で気付くことができるはずだ。
万有引力を知らない人が、林檎が地面に落ちるのを、「林檎は自分の意志で地面に落ちたかったからだ」と解釈したり、「天使が林檎をはさみで切り落としたからだ」と解釈したりしてしまう。
それはそれで、面白い。子どもなど、実に自由な発想で、世界を説明してくれる。いっそそのまま自由であってくれないかなと思うほどに。
しかし、現実に対処したいのであれば、常に疑っていたい。情報を、認識を。
知性とは疑問を持つことである、という話は誰が言っていたのだろう。
最近よくその言葉を思い出す。
告知はだいたいTwitterでやってて、そっちを見てくれれば。
あと新作漫画はpixivにものっけてるし。
最近、「種の起源」にハマっていた。ダーウィンのあれだ。といっても解説本とか精読本をいろいろ読んだり、ネットで調べたりしていた。原典を原典のまま読めたらいいんだけど、そーもいかない。知らないことがたくさんあって面白かった。進化論についても、知ってるようで知らないことばかりだったし、長年の疑問が解けたりした。学校で学んでいるときも、生物学は好きだったけど、もっともっと深く興味を持てていたら面白かったのになぁと思った。というベタな雑感。
面白かったこと。
ダーウィンが行った徹底した観察と、その結果に基づく科学的考察というのは、考える力を養う上で非常に重要だと感じたこと。
インターネットでは、日々、あらゆる情報が飛び交っているが、それはいつも偏っている。努めて平等にしようとしても、Twitterで誰をフォローするか、ニュースサイトでどんなニュースが気になってクリックするかは己の意志によって決定されるので、結局偏っていく。
それは、実生活でも同じことが言えて、テレビでも新聞でもラジオでも日常でも、いろいろな情報が飛び交っているのに、実際耳に入ってきて考える素となるのは、大抵自分が(意識的にせよ、無意識にせよ)求めている情報でしかない。インターネットはそれが顕著になるメディアだ。
ある発信源から発せられる情報が偏っていると感じるのは、自分の意志があるからだ。
どこかの発信する情報の偏りに憤るならば、自分の求めたい情報がそこにないからだ。
情報を他者に伝えようとすれば、編集して伝えることになる。誰が、どのような目的で、誰のために、どこを切り取るか。あらゆる地点で編集者の意図が介在する。完全なる生の情報は存在しない。体験すら、自分の意識が邪魔になる。
その前提に意識的かどうかが重要だ。
己が社会だと信じて疑わないものは常に、自分向けにカスタマイズされた社会だ。望むものであろうとそうでなかろうと、その事実は変わらない。自分の知るものが、常に、そのすべてではないと思っていたい。
ダーウィンの時代信じられていた通説は、現代から見ると誤っている。それでも、当時はそれが真実と多くの人に受け入れられていた。ダーウィンが殊に優れていたのは、その枷から自由になり、思考をめぐらすことができた点だ。その際の根拠となったのが、徹底した観察であり、現実に目を向け続けた姿勢であると感じた。
実に多くの問題が、認識の誤りから生まれている。
先日、ふと、「アリとキリギリス」というイソップ寓話に疑問を持った。アリが働き者の象徴なのはわかるが、キリギリスは? キリギリスはそもそも冬を越せない昆虫なのだから、冬支度せずに夏を謳歌するのは通常営業で、怠け者扱いはおかしいのではないかと思った。
そこで、キリギリスの生態のどういった点が怠け者と例えられることになったのかを考えようかと思ったのだが、また、ふと、疑問を持った。そもそも、原題は「アリとキリギリス」ではなかったのではないかと思ったのだ。
来日する多くの欧米人が、夏、セミの声を聴いて「なんの音なのか」と疑問を抱くと聞いたことがある。セミは日本ではメジャーな昆虫だが、欧米ではそうではない。キリギリスも同じような案件ではないか。キリギリスが、全世界的に分布しているメジャーな昆虫には思えない。
検索してみた。
Wikipediaによれば原題は、そのものズバリ「アリとセミ」であり、そのセミとは、センチコガネという虫だそうだ。一体、セミなのか、コガネムシなのか、新たな疑問が生まれてしまったが、今回は「キリギリスではなかった」ことだけが判っただけで十分である。
あやうく、「キリギリスが享楽主義者たる30の理由」とかいうホッテントリ的テーマで考え出さずに済んで良かった。
私自身は、日頃 考え事に効率を求めないし、実用も求めない。考え事は楽しい、面白い、興味深いものならばなんでもいい。
しかし、問題の解決や、苦痛の軽減、アイデアの発掘など、実用のために考えるならば、そもそも問題の認識を誤ると、トンデモ理論の発明をしなくてはいけなくなるな、としみじみ感じた出来事だった。
思考とは、現実の観察から始めなくてはいけない。ダーウィンのように。
なるべく恣意的なフィルターを取り除き、情報を精査し、観察者としての徹底した姿勢が重要だ。
そこから、考え始める。
すると、そもそも「そこに問題などなかった」ことすらある。怠け者がキリギリスではなかったように。
間違った観察と、誤った認識によって、問題ではないことが問題になっていることが往々にしてある。そのこと自体も、徹底した観察で気付くことができるはずだ。
万有引力を知らない人が、林檎が地面に落ちるのを、「林檎は自分の意志で地面に落ちたかったからだ」と解釈したり、「天使が林檎をはさみで切り落としたからだ」と解釈したりしてしまう。
それはそれで、面白い。子どもなど、実に自由な発想で、世界を説明してくれる。いっそそのまま自由であってくれないかなと思うほどに。
しかし、現実に対処したいのであれば、常に疑っていたい。情報を、認識を。
知性とは疑問を持つことである、という話は誰が言っていたのだろう。
最近よくその言葉を思い出す。
PR
最新記事
(07/20)
(02/21)
(02/10)
(01/02)
(12/02)
ブログ内検索